ASD(自閉症やアスペルガーの総称)の人は、よく「日本は」「日本人は」と文句を言っているが、それは、定型発達や定型に合わせている無自覚ASDへの文句だと思う。
異文化・異人種への不信、疑問、嫌悪。
私も、定型発達は理解できないし、定型発達や定型に迎合する無自覚ASDを見て「日本人は理解できない」と文句を言いたくなる(このブログでも言っていた)
だが、最近は、定型は定型で必要なんだな、と、否定せずに認められるようになってきた。
理解することは難しくても、否定せずに認めることは、可能なのだと思う。
今日はそんな、
ASD側から見た「定型発達症候群」について、書いてみようと思う。
定型の側から見れば、ASDが病気とされるが、ASD側から見れば、定型の方が病気である。
物事はどちらから見るかで、変わる。
読者にそういうことを考えて欲しくて、書く。
(本気で定型発達を病気と言っているわけではないので、悪しからず。
定型発達だから病気、ASDだから病気、というのは違うと思う。実際は個々人によって、問題の有無や程度は違う)
定型発達症候群の症状
・「正しさ」より既存の価値観を優先
世の中の価値観がどれだけ狂っていようが、既存の価値観に合わせることを優先する。
その結果、金に執着して、節約や稼ぐことに必死。
金は最低限あれば幸福度は変わらないという科学的な研究結果も無視して、「金さえあれば幸せになれる」と信じている。
拝金主義の競争社会では、効率や生産性が重視されるので、時間にも執着している。
「時短」に必死。金や効率に執着する生き方をやめれば、時間に追われることも無くなるのに…。
日本の理不尽の代表とも言える、男尊女卑や年功序列を内面化している。
夫に経済的に依存して「主人」と言ってみたり、年上の上司に媚びへつらったり、男で年上だからと若い女性に偉そうにしてみたり。
そんな風に、年齢や性別で上下をつけてくる定型発達(とそれに迎合する無自覚ASD)の方が病気だと思うが…
ASDは「誰が」を気にせず「何を言ってるか」を気にするから、平等意識が強い
(背景を気にせず、メディアや周りの言葉を鵜呑みにして差別主義者になっている人もいるが)
定型発達症候群は、既存の価値観を疑わないので、金や時間以外にも、肩書きや見た目などにも執着している。
A○Bといった、男尊女卑×序列社会×金が全て×コネや広告代理店を使って売る…という日本の嫌なところを濃縮したような存在を見ても、何とも思わないのが、定型発達症候群(とそれに迎合している無自覚ASDたち)
・思ってないことを言う、社交辞令を言う
内心は思ってないのに「ありがとう」と言ったり、内心は思ってないのに「また来てね」とか「またメールしてね」とか、内心と言葉が裏腹。
言葉だけを信じてたら、定型とのコミュニケーションは振り回される。
言ったのにやらない、発言と行動が違う。ASDと定型で、言葉の重みが違う。
外国人が「日本人は言葉と内心が違うから理解できない」と言ったりしているのを見かけたことがあるが、ASDから見ても、その点は理解できない、と思う。
言葉と内心の差が少ない環境なら(海外にはそういう地域も多いのだろう)ASDだからといって、問題視されることは減るのではないだろうか。
少なくとも、全て言語化して確認して言語化して伝えてもらう、という点では、海外の方がASDに合うのだろう。
日本は特殊なのだと思う。
「忖度」みたいな気持ち悪い言葉があるし。
わからない他者の気持ちをわかったつもりになって、相手の気持ちは無視して、勝手に色々と押し付けてくるのが、日本社会。
(無自覚ASDの多さも影響しているかもしれない…無自覚ASDは自分の価値観を押し付けやすい)
「忖度」とか、「おもてなし」とか、ただの自他境界のない押し付けだと思う。
言葉と内心が違うって気持ち悪いし、怖いと思う。
定型発達症候群は、言葉と内心が違う。
そんな日本社会に適応したASDは、相手の言葉の裏を想像し過ぎて、相手の気持ちや意図が余計にわからなくなったりする場合もある。
(なので定型発達症候群とのコミュニケーションは最小限にした方が、ストレスが少ない、私の場合)
・裏がある、演じる
そんな風に、言葉と内心が違うから、裏がある。
定型発達症候群の人間は、外では優しい人間を演じてたり、職場では良い人間を演じてたりするが、身内にはモラハラ人間という場合がある。
ASDの場合は、二次障害になっていない場合、裏がなく誰に対しても同じ対応である。
二次障害があると、親しい人以外には良い人間を演じるというような人もいる。
定型発達症候群は、その時見せる顔だけでは、どういう人かわからない。
優しく見えても裏があったりするから、怖いと思う。
あまりにも不自然で演じている度合いが強い人は、特に、裏がありそうで怖い、と感じる。
私の場合、定型は裏があることが多いから、信じるのが怖い。
(実際にどの程度、裏がある人間が多いのかは不明…最初に深く関わった定型が裏がある人だったため、私のなかに誤学習があるのだと思う)
・思考停止している
社会に必要な改革はなにか、とか、自分とはなにか、とか、哲学をせずに、日々、毎日が楽しければそれでいいや、と思考停止している。
その結果、社会の価値観が狂っていても、それを疑わずに、既存の価値観の維持のために行動する。
最初にも書いたけど、男尊女卑や年功序列を内面化していたり、競争社会や消費社会を疑わなかったり。
金、権力、物、モテ、見た目 などに執着している。
本質よりも外側しか見ずに、より良く生きるためにどうしたら良いか、などは考えない。
社会の価値観をより良くすることより、周りに合わせて周りに居場所があることの方が大事らしい。
これは、全世界共通の定型発達症候群の症状である。
周りに言われると、人殺しでもやってしまう。ASDは、いくら周りに言われても、人は殺さない
(定型の3人は周りに流されて人を殺すが、ASDの男性は殺さない。Netflixで配信中のダレン・ブラウン「プッシュ」を参照)
・睡眠や腸内環境の重要性を理解しない
定型発達でリーキーガットがない場合、多少の睡眠不足や腸に悪いものを食べても、脳の状態への影響が少ない。
発達障害があり脳がアンバランスだと、腸内環境で精神状態が左右されたり睡眠不足で脳の状態が大きく変わる。
なので、発達障害がある人間には睡眠や食事のコントロールが重要だが、定型発達症候群はそれを理解しない。
小麦や乳製品などを好き勝手食べていて、発達障害の人間が「発達障害の人間は腸内環境が大事」だと訴えても、信じない。
体質が違う、自分には無いことだから、理解できないのだと思う。
なので、定型発達症候群の医師の発言を鵜呑みにしていると、発達障害の症状が悪化したりする場合がある
(食事制限は不要だと言ったり、栄養が重要だと知っている医師でも発達障害には合わない食事を勧めてきたり)
ASDは自分の視点からしか考えられず、価値観を押し付けてくると言われるが、定型発達症候群の方にも「発達障害の人間の腸や脳は自分たちとは違う」という意識が必要だと思う。
・栄養障害や奴隷的な価値観に無自覚
定型発達症候群(とそれに迎合している無自覚ASD)は、狂った国に生きていてもそれに気付けないので(気付いても無視する)、日本の価値観や生活習慣を鵜呑みにして栄養障害や精神的不調になっていても、気付かない。(もしくは、無視する)
働き過ぎ、寝不足、拝金主義、競争社会、不自然な食品、重金属汚染の多さ、理不尽な序列、序列によるハラスメントの多さ…そういった環境で常識を疑わずに生きていたら、栄養障害や精神的不調になるのが自然である。
痩せ過ぎたり太り過ぎたり、慢性鼻炎やアレルギーや花粉症があったり。
そういった栄養障害がない人間の方が少数派で、痩せ過ぎでも太り過ぎでもなく、副腎疲労がなく、鼻炎やアレルギーや花粉症がない、アルコール依存もニコチン依存もない…という健康的な人間は日本には1-2割ほどしかいない。
そういった健康的な人間は認知も健全で、利他的で優しい。
そういった人間が多い国(社会全体の人権意識が高く、栄養障害が少なく、高身長が多い国)は幸福度が高い。
日本の場合は、不健康な人間が多く、認知(脳)や内臓がバグっている人間が多い。
(なので平均身長も低いし、幸福度も低い)
発達障害が多いのも、栄養障害が多いからだといえる。
なのに、それに気付かない。
定型発達症候群と定型に迎合する無自覚ASDたちは、日本社会の前提を疑わないので
・不健康が当たり前
・理不尽が当たり前
・ストレスが多いのが当たり前
・仕事や勉強で他のことが犠牲になるのが当たり前
・金や時間に追われるのが当たり前
になっている。
可哀想だと思う。
以上が、日本に多い、定型発達症候群の特徴である。
物事は、どちらから見るかで変わる
定型発達症候群の特徴を裏返すと、ASDの特徴と言われるものになる
今回の場合、
・正しさ重視
・ストレートな発言
・真っ直ぐで裏がない
・考えすぎ
・睡眠や食事で体調や精神が大きく変わる
・周りに合わせず社会に意見を言う
となる。
なので、物事はどちらから見るか、の違いでしかない
多数派の定型発達から見れば、ASDは病気とされるが、ASDから見れば、定型発達の方が定型発達症候群という病気である
少なくとも、ここに書いた症状を見れば、定型の方が病気だと思う(私というASDの視点から見れば)
発達障害がある人も、ない人も、両方が必要
定型には定型の良さがあり、発達障害の人間には発達障害の人間の良さがあるので、不要な対立や期待は不要なのだと思う
定型とは異人種だから分かり合えない、分かり合えなくて対立や衝突をしても仕方ない、と、最初から諦めて関わっていた方が良いと思う。
そうやって諦めて、
「定型からはこっちが変に見えるんだろうなぁ…でもこっちからは定型が変だよ、理解は難しい…お互い様なんだろうなぁ」と思って生きるようにしたら、日常のストレスは減った
定型から見てASDが変でも、定型たちは表立っては否定してこないから(内心は気味悪がられているのかもしれないが)私の側も、表立って向こうを否定しても仕方ない、と気付いた。
あとは、定型への感謝を増やしたら、ストレスも減った。
定型発達症候群が、常識を鵜呑みにして、組織の歯車として生きてるおかげで、世の中は回っている。
ASDだけなら、全員引きこもって、フリーランスか無職が多くなり、組織はほとんど無くなり、自分の主張をする人たちだけの社会になる。
ツイッターやブログや掲示板で「世の中はこうなるべき」と理想を語る人たちだけの社会になり、日常生活の維持が難しくなると思う。
理想は大事、でも、現状を維持する人たちがいるから、生活できているのだなぁ…と気付くと、定型へのモヤモヤより感謝が増えた。
テクノロジーの進化や社会の価値観の改革のために、ASDを含めた発達障害の人は必要、でも、
日常生活の維持のために、定型の人たちも必要。
(定型の人たちのなかにも、テクノロジーの進化や社会の価値観の改革に貢献する人もいると知っている)
なので、どちらも優劣はない。
今の私は、本気で、そう思う。
ASDやADHDといった発達障害には発達障害の人間の良さがあるし、定型には定型の良さがあるのだから、お互いに尊重できる社会になればよいなぁ、と思う。
今は、絶対数が多いのに発達障害が差別されていて、虐げられた発達障害の人が、引きこもったり世の中と戦ったり海外に逃げたりしているが、人種の違いや脳のタイプの違いとして社会に居場所がある時代が来れば良いなぁ、と思う。
(そのために、自分にできることをやる)
おわりに
社会に居場所がない状態だと、被害者意識を強くした発達障害の人たちが、定型発達や社会全体に攻撃的になるのも仕方ないと思うので、発達障害を含めたマイノリティの人たちに居場所がある社会になる必要がある。
(そのために私は私にできることをしているし、私が理解できない人たちも、より良い社会にしようと、生きているのだと思う…多分)
発達障害と定型発達に関わらず、異文化・異人種で対立しても仕方ないと気付く人が増えれば、嬉しい。
相手には相手の良さがある、存在価値がある、と、他者を競争して蹴落としたり比較して優劣をつける存在として見ず、協調して尊重できる人が増えれば、より良い社会になるのだと思う。
競争社会ゆえに他者を蹴落とそうとしたり、優劣をつける人が多いが、他者と敵対するのではなく、協力することが一般的になれば、もっと生きやすい社会になると思う。
私のようにコミュニケーションに苦手意識があるなら、協力は難しくても、
否定をやめて諦めることで、自分が楽になれると思う。
人それぞれ価値観は違う
その視点や価値観に優劣はない
自分の好き嫌いがあるだけ
自分も尊重されて良い
相手も尊重して良い
お互いに許して、認めるしかない
そういったことに気付く人が増えれば、嬉しいと思う。